前払い退職金制度とは、企業から従業員へ支払う退職金を在職中に分割(給与・賞与に上乗せ)して支給する制度のことです。
近年、従来型の「退職金制度」のあり方が見直されつつあります。転職の一般化や働き方・ライフスタイルの多様化により、退職時に一括で支給される退職金ではすべての従業員のニーズに応えきれないケースが増えてきました。
こうした背景のもと、中小企業を中心に注目されているのが前払い退職金制度です。この制度は、柔軟な働き方を支援する施策として採用力の強化や人材定着にも効果を発揮します。
本記事では、前払い退職金制度の基本的な仕組みから、企業・従業員それぞれにとってのメリット・デメリット、導入時のポイントまでわかりやすく解説します。
前払い退職金制度とは

前払い退職金制度とは、本来退職時にまとめて支給する退職金を、在職中に支給する制度のことです。月々の給与(または手当や賞与)に含めて前もって支給されるため、実質的には給与の一部と見なされます。
従来の退職金は「退職所得」として扱われ、退職所得控除や分離課税といった税制優遇を受けられますが、前払い退職金で支給される場合は「給与所得」として扱われます。この制度により支給された退職金は所得税の課税対象になるだけでなく、社会保険料の算定基礎にも含まれる点には注意が必要です。
そのため、退職金を一括で受け取る場合と比較して、従業員側の税金や社会保険料負担が重くなる可能性があります。ただし、毎月の給与が増えるのは、短期的に見れば従業員にとって大きなメリットと言えるでしょう。
企業側にとっては、将来の退職金支払いに備える「退職給付引当金」を負債として計上する必要がなくなります。その結果、貸借対照表上の負債が減少し、企業の財務状況が健全に見えるため、金融機関からの評価が高まりやすくなります。この点に関して、とくに中小企業にとっては融資を受ける際に有利になる可能性があるでしょう。
前払い退職金制度の運用方法
前払い退職金制度は、退職金相当額を毎月の給与や賞与に上乗せして支給するのが一般的です。例えば、「毎月の給与に1万円を上乗せして支給する」といった形式が取られます。
運用にあたっては、退職金規程や就業規則に「前払い方式を採用する」旨や「具体的な金額・支給方法・加入対象者」などを明記する必要があります。制度を明文化することで従業員との認識のズレやトラブルを防ぎ、透明性の高い制度運営が可能になります。
労使間の信頼関係を損なわず、公平性を保つためにも、明確なルールづくりは不可欠です。しっかりと整備された制度はトラブルを未然に防ぐだけでなく、長期的な人材定着にもつながります。
また、前払い退職金の運用方法を就業規則に定めておけば、「現金での受け取り」や「企業型確定拠出年金(企業型DC)の掛金として拠出」「社内定期預金への積み立て」など、支給方法を従業員が選べるようにすることも可能です。
選択肢があることで従業員はライフスタイルや資産形成の目的に応じた柔軟な対応ができるようになるため、福利厚生としての魅力が高まります。また、従業員が自身の将来を見据えた資産形成を考えるきっかけにもなり、企業へのエンゲージメント向上にも寄与してくれるかもしれません。
前払い退職金が導入されている背景

近年、働き方の多様化や人材の流動化が急速に進み、従来の「退職まで勤め上げることを前提とした退職金制度」は時代のニーズに合わなくなりつつあります。終身雇用制度が見直され、キャリアアップを目的とした転職が一般的になってきたことも、前払い退職金が注目されるようになった要因の1つです。
とくに若年層では、「長く働くこと」よりも「今の報酬」を重視する傾向が強まっています。仕事を選ぶ際にはワークライフバランスや柔軟な働き方などが重視されるようになり、将来の退職金よりも現在の手取り収入を重視する声が増加。生活の安定や資産運用のために、今すぐ使えるお金を求めるニーズが高まっているのです。
企業側にも、前払い退職金制度の導入を検討する余地があります。従来の退職金制度では将来の支払いに備えて多額の「退職給付引当金」を計上する必要があり、これが資金繰りを圧迫する要因となっていました。この引当金は貸借対照表上の負債として扱われ、財務評価を下げる原因にもなります。
こうした背景から、従業員にとっては実質的な給与が増え、企業にとっては財務の健全化を図る手段となる前払い退職金制度が注目されるようになりました。
前払い退職金制度の企業側のメリット・デメリット

前払い退職金制度は、企業にとって人材確保や定着促進といったメリットがある一方で、コストや制度運用に関する課題も存在します。
以下では、導入を検討するうえで企業側が把握しておくべきメリット・デメリットについて解説します。
メリット①:資金繰りの改善と経営の安定化
前払い退職金制度を導入すると、従来のように退職時にまとまった金額を一括で支払う必要がなくなり、退職金を毎月の給与や賞与に分散して支給する形になります。
とくに中小企業では、退職金の一括支払いが資金繰りに大きな負担をもたらすケースもあります。しかし、前払い制度を導入すれば月々の支出として計上できるため、まとまった資金の流出を抑えられ、資金繰りに余裕が生まれるでしょう。
また、将来の退職金支払いに備えた「退職給付引当金」の積み立ても不要となります。貸借対照表上の負債が減ることで企業の財務状況はより健全に見えるようになり、金融機関からの評価向上にもつながります。
財務面の健全化は融資の獲得や取引先からの信頼確保にも好影響を与えるため、経営の安定に寄与します。
メリット②:採用活動における競争力の向上
前払い退職金制度を導入すると毎月の給与に退職金相当額を上乗せするため、従業員は積み立てや年金資産の運用などで将来の資産形成を自由に行うことができます。
さらに、企業型確定拠出年金(企業型DC)と併用することで、前払い退職金の一部を企業型DCの掛金として拠出する「選択制DC」の仕組みを整えることも可能です。将来の資産形成に関心のある求職者に対して柔軟かつ実用的な選択肢を提示できる点は、大きな魅力と言えます。
なかでも若年層は、柔軟な働き方や納得感のある報酬制度を重視する傾向にあります。「時代に即した働き方に対応している企業」というイメージを持ってもらいやすく、福利厚生制度としての前払い退職金制度は採用競争力を高める要素となり得ます。
採用市場では大企業が優位に立ちやすいなか、中小企業でも「働き方への柔軟な対応」をアピールできる制度として活用できるでしょう。
デメリット①:社会保険料の負担増加
前払い退職金は「給与」として扱われるため、従業員・企業ともに社会保険料の負担が増加します。社会保険料は、4月~6月の報酬を基に算出される「標準報酬月額」により算出される仕組みで、当該期間の給与額が上がれば保険料も増加します。
また、月々の人件費総額が上昇するため、企業にとっては単月の固定費が増える要因となります。従業員数や支給金額によっては、年間で数十万円から数百万円の増加につながることもあるでしょう。
このような固定費の増加は、中小企業にとって無視できない経営リスクです。制度導入による人材確保や定着と、コスト増加とのバランスを慎重に見極めたうえで、支給方法や金額設定を検討する必要があります。
デメリット②:従業員の不祥事時に退職金の返還請求ができない
従来の退職金制度では、あらかじめ就業規則に定めることで、「従業員が不正行為や重大な規律違反を犯した場合には退職金を支払わない(あるいは減額する)という措置を取ることができます。この規定は、不祥事への抑止力としても機能しています。
しかし、前払い退職金制度では退職金の一部がすでに給与として支払われているため、原則として返還を求めることはできません。たとえ懲戒解雇に相当するような行為があった場合でも、給与として支給済みの金額については没収や返金の請求が困難です。
そのため、制度導入後は不祥事防止の観点からも、懲戒規定や人事評価制度の整備など、別の仕組みで従業員の行動管理を行う必要があります。とくに内部統制が整っていない中小企業では、不祥事が発生した際のリスクが大きくなりがちです。制度導入前に想定されるリスクを洗い出し、適切なルールや対応策を事前に設けておきましょう。
前払い退職金制度の従業員側のメリット・デメリット

前払い退職金制度は、企業側だけでなく従業員にとっても大きな影響を与える制度です。手取り収入の増加や資産形成の自由度が高まる一方で、税制上の優遇が受けられないなどのデメリットも存在します。
従業員側のメリット・デメリットについても確認しておきましょう。
メリット①:手取り収入の増加と生活の安定
毎月の給与に退職金相当額が分割で上乗せされる前払い退職金制度では、従業員の手取り収入が実質的に増加します。手取りが増えることで日々の生活が安定し、住宅ローンなどの審査にも有利に働く場合があります。
また、従来の退職金制度とは異なり、在職中から自由に資金を使える点も魅力です。生活費はもちろん、投資や貯蓄などにも活用でき、従業員自身がライフプランに沿った資産形成を行いやすくなります。
メリット②:退職金減額リスクの回避
従来の退職金制度は、企業の業績悪化や制度の見直しによって退職金が減額されたり、最悪の場合は支給が廃止されたりするリスクも存在していました。
その点、前払い退職金制度なら、すでに支払われた分が減額される心配はありません。企業の経営状況や景気動向に左右されず、確実に受け取れる安心感があります。
将来の見通しが不透明な時代において、「今、確実に得られる報酬」は従業員にとって大きな価値を持ちます。そうした点でも、前払い制度は魅力的な選択肢と言えるでしょう。
デメリット①:税制優遇措置の喪失
前払い退職金は給与所得として扱われるため、退職金に適用される「退職所得控除」や「分離課税」といった税制優遇措置を受けることができません。これが従業員にとって大きなデメリットとなります。
退職所得控除は、長年の勤続に対する報償として税負担を大幅に軽減する制度です。勤続年数が長いほど控除額は大きくなり、一時金を一括で受け取る場合には税負担が大きく軽減されます。
こうした税制上のメリットを享受できない前払い退職金制度では、従業員が最終的に手にする老後資金の総額にも影響があります。目先の手取り額の増加だけに注目していると長期的なデメリットを見落とすリスクもあるため、制度導入時には、前払い退職金制度による将来的な影響について従業員にしっかり説明することが重要です。
デメリット②:長期勤続によるメリットが得られにくい
従来の退職金制度では、勤続年数が長くなるほど支給額が増える仕組みが一般的であり、それが長期的な勤続を促すインセンティブにもなっていました。また、企業型確定拠出年金制度(企業型DC)を併用している企業であれば、長期的な資産運用により将来の受給額が増額するケースもあります。
一方で、前払い退職金制度では「勤続年数に応じた加算」や「年功的な上乗せ」が難しくなります。結果として「長く勤めることで得られるメリット」が見えにくくなることから、転職や早期退職を考える従業員が出てくる可能性もあります。
企業としては、長期勤続者への報奨制度や確定拠出年金との併用などで、長く働くインセンティブを補完する工夫が求められるでしょう。
前払い退職金制度を導入する際の注意点

前払い退職金制度は、企業と従業員双方に多くのメリットをもたらす一方で、制度設計や運用方法を誤ると思わぬトラブルや負担を招く恐れがあります。制度を円滑に導入するには、事前の準備と制度設計が重要です。
以下では、導入時に押さえておくべきポイントを解説します。
導入前に資金計画を立てる
前払い退職金制度への移行や導入は、社会保険料の増加や毎月の人件費総額の増加などコスト面の影響を伴います。とりわけ中小企業にとっては毎月の支出増加が資金繰りに与える影響が大きく、導入前に綿密な資金計画を立てることが不可欠です。
また、制度を移行する際には、既存の退職金制度との整合性にも注意が必要です。従業員の在籍年数や貢献度による不公平が生じないよう、従業員に応じた適切な支給額を設計する必要があります。これは、従業員のモチベーション維持や不満の発生を防ぐうえで非常に重要です。
制度導入にあたっては、就業規則や給与規程の改定も必要になります。なお、就業規則の作成義務がない10名未満の事業所においても、就業規則の作成をおすすめします。その際、社会保険労務士や退職金制度に詳しいコンサルタントと連携すると安心です。専門家のサポートを得ることで、制度導入にともなう法的リスクや運用上のトラブルを未然に防げるでしょう。
企業型確定拠出年金の導入を検討する
企業型確定拠出年金制度とは、事業主が毎月掛金を拠出し、加入者自らが運用し老後の資産を形成する企業年金制度です。掛金とその運用額の合計を基に、将来の給付額が決定します。
企業型確定拠出年金を導入する際の設計方式には以下の方法があります。
■ 設計方式:全員加入
事業主が支給する退職金を確定拠出年金の掛金として加入者の確定拠出年金口座に積み立てます。マッチング拠出を併用することで、加入者自身が追加で拠出する設計とすることも可能です。
■ 設計方式:選択制
事業主が支給する退職金を確定拠出年金の掛金として拠出するか、給与の上乗せとして受け取るかを従業員が選択できます。
従業員の資産形成の支援を目的とする場合は、上記の設計方式による企業型確定拠出年金制度の導入も効果的です。なかでも、前払退職金制度として選択制の企業型確定拠出年金(選択制DC)の活用が注目されています。
選択制DCでは、希望する従業員が前払い退職金の全部または一部を掛金として拠出し、税制優遇を受けながら老後資金を形成できます。確定拠出年金の掛金は全額が所得控除の対象となり、運用益も非課税であるため税制面で非常に優れています。
また、事業主が選択制DCで掛金として拠出する場合、掛金は社会保険料の算定基礎に含まれません。そのため、企業と従業員の双方にとって社会保険料負担の軽減につながる可能性があります。
こうした柔軟な制度整備は、従業員の価値観やライフプランに応じた柔軟な選択肢を提供することになり、従業員満足度や人材定着率の向上にも貢献します。
まとめ
前払い退職金制度は、働き方の多様化が進む現代において、企業と従業員双方に多くのメリットをもたらします。企業にとっては、資金繰りの改善と経営の安定化、従業員側には手取り収入の増加による生活の安定、退職金減額リスクの回避というメリットがあります。
一方で、社会保険料の負担増加や税制優遇が受けられないといった課題もあるため、導入時には慎重な資金計画と、制度の適切な運用設計が求められます。
確定拠出年金との併用(選択制DC)などを通じて、税制優遇を活かしつつ従業員の老後資産形成を支援する仕組みを整えれば、企業全体の魅力を高めることができるでしょう。
前払い退職金制度は、単なる給与制度の変更にとどまらず、企業の成長戦略や人材確保に直結する重要な施策です。働き方や価値観が多様化する現代において、求職者に選ばれる企業となるための一歩として、導入を前向きに検討してみてはいかがでしょうか。
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